刻暑 (嶋本と高嶺)
自分にかかる重力が、空に浮かぶ雲を引く。
畳に張り付いているのは汗ばむ背中を包む布一枚では決してなくて、扇ぐことを放棄した手からこぼれた団扇以外の自分の接する全てのような錯覚をみる。
もう少し、と己を励ましてみても慣れることのない湿り気は項をなんともうんざりさせて、張り付く髪を退かそうと触れた肌はなんとも言えずにひやりとしたが、指先から伝わる手のひらの熱ですぐに温くなってしまう。開け放した窓から出かけていった待ち人が階段をあがる音を何度譫言のように聞いただろう。
かん、と錆びたような音を立てるこの部屋に続く階段を踏みしめる音。それ以外の音は暑さに溶けたか、きっと動かないこの空気の壁に阻まれているに違いない。
目を閉じて細く長く息を吐く。自分の体温より熱い気がするその呼気の行方は知らない。
目を、開けていれば良かったと思った。
耳元に突然ガサリと聞き慣れたビニール袋の音がしたと思えば、それに目を開けるより早く、首のあたりの耳の付け根に触れた冷たく堅い感触に驚いて目を開けるより早く、自分の唇からそれを放したその人が見開いた目の前、ピントの合うか合わないかのところでニヤリと笑うのが見えて、だから、目を、開けていれば良かったと思った。
おかえりなさい、と掠れた声で言うのが精一杯で、だらしなく伸ばしきった指先がピクリと動くだけだった。それまでの暑さとは違った熱が頭の中に満ちていって、思考が一瞬停止する。にやりと笑ったままのその人は距離を変えずに逡巡して、そんなだらしのない格好が珍しくて思わず、と言い訳がましい後付けの理由を述べた。
非常に嘘臭いと表情だけで伝えて起き上がれば、ビニール袋から取り出された瓶を再び首筋にあてられる。今度はなんとなく身構えていたのでそれほど驚きもしなかったが、やはりその冷たさに小さく肩が跳ねる。
懐かしいやろ、と得意気に取り出されたくびれた形の青色の瓶は、からんとその首にガラス玉を鳴らす。その意味をしばらく考えて、一体どこから開封済みなのかを確認するだけで思考回路はいっぱいだった。
労いの意味を込めて団扇を手に取り直してその人を扇げば、数十分ぶりの空気の流れに満足そうに笑いながら扇風機がやっぱり好きだと言うから、扇風機といえば恒例ですよねと具体的なところを言わずにいると、あー、て言うよな、と思った通りの答えが返る。幼いその人がそうしているところが容易に想像できてしまって、ずっと昔どこかにおいてきてしまった錯覚にとらわれるような一瞬の眩暈を感じて、だからやっぱり今は夏で、自分はこの季節は苦手なのだと思う。
しばらく無言で扇いでいると、空になった瓶の首にガラス玉が遊んで、なんとも冷たい音がする。その音を合図にしたように疲労感に似たような、寝転がりたい欲求がふとわいて、無言の流れでそのまま静かに横になれば先ほどまで自分の体温で熱かった畳はもう一度ひんやりとした体裁を整えていた。
一人でいる時にはまるで聞こえなかった外の音が、今は賑やかに自分の耳に届いて、自分のいた先ほどの夏とこの人が外から連れてきた夏が今はきっとこの狭い部屋の中で混ざり合ってガラス瓶の底にカランと一つ遊んでいる錯覚を見た。
暑さという表現のバリエーションを追求した結果、夏特有のあのなんとも言い難い感覚をいかに様々な言葉で代用してこねくり回すかに熱中してしまって、恐ろしい文字数をつぎ込んでしまいました。
高嶺さんが暑さにやられてだらしがない様子をとてもとても見てみたい、そんな自分の欲求に素直になった結果がこれです。
夏の暑さにかこつけて色々と感じ入るところがあれば良い。
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